移民讃歌EP01 稲嶺恵一
すみませんが、92歳に免じて座ったまま喋ることをお許し願いたい。
私は実は移民の孫でございます。私の祖父、稲嶺盛玉というのはペルー移民。今から107年前にペルーに渡りました。
そして向こうで18年間頑張って牧場をやって一時成功したんですけど、全部飼っている牛が死んじゃって、もう心身ともに消耗して亡くなったんです。
当時の沖縄はものすごく貧乏でした。私の祖父は、元々農家の三男坊でした。農家の長男は跡を継ぐけど、次男以外は移民をするか、あるいは大阪に出稼ぎに行くとか、そういうことしかなかったんです。祖父は身ひとつでペルーに行ったんです。
ところがその大変な苦労の中で、せっせと送金をしてくれたのは実はこの移民の方々です。今は移民って言葉は使いませんで、海外のウチナーンチュとか世界のウチナーンチュという言葉を使いますけど、当時はまだ移民と言っていた。
だから当時のいろんなデータを調べますとね、県の収入の中で一番多いのが、実は送金だった。皆さん、そういう時代もあったんです。本当に歯をくいしばって頑張りながら故郷を思って自分はろくに食べないでせっせと沖縄にお金を送ってきた。これが現実です。
その一番最たるものは、アメリカです。戦争の相手だったんで日本は敵性国家だったんですね。非常に苦労されて財産没収された人もいるし収容された人もいるわけです。
それでも戦後すぐハワイから550頭の豚を、わざわざ貨物船をチャーターして送り込んできた。これはどれだけ当時の沖縄にとって救いであったんでしょうか?
私たちはこの人達を忘れることは出来ないと思います。特に今、日本でも発展途上国の人達が働いていますけど、1つの小さな部屋にぎゅう詰めになりながら生活をギリギリにして一生懸命に祖国に送金していって話を聞きます。
その話とダブルわけです。だから外国人排斥、-これは話が結構ズレますからやめます。が、そういうようなことは言ってほしくないと思っております。
私の父は田舎の農家の三男坊の息子です。当時はみんな学歴は大体小学校で終わる人が大半でした。私の父は高等小学校に行ったんです。ところが祖父がペルーで頑張ってお金を送ってくるようになったので、それで父は県立二中を経て早稲田に行ったんです。ところが早稲田に入った途端祖父が亡くなっちゃったんで、父は苦学の人生を送ったわけですけれども、しかし父だけじゃないんです。
みんな海外に行かれたウチナーンチュの皆様はですね、家族のことを思い、県のことを思い―県のことってのはね、世界中に移民の方いっぱいおられますけど、皆さん母国って言葉を使いますね。
沖縄は違うんですよ。母県というんです。沖縄だけです。ぜんぜん違うんです。だから単に国以外に本当の故郷っていう心溢れたものがあるわけです。やっぱりこういうものを大事にしなきゃならないなと思います。
私が個人的にいかに世界のウチナーンチュの心を感じたのかはですね、実はサミットが2000年に行われることになったんで、そのために世界のウチナーンチュ大会は2001年になったんです。
随分県内では稲嶺何してんだっていうことでけしからん、ということがありまして私は2001年に1年伸ばした代わりに、サミットが終わってから各地の県人会を回ったんです。そうしたらですね、実は沖縄県民より海外のウチナーンチュが喜んでるんです。なぜか、ある意味ではウチナーンチュっていうのは昔はかなり差別された時代があるんですね。
その中で一致団結して彼らは沖縄県人会をつくって、県人会館を持ったり色々努力をして成功してきたわけです。しかし、なかなか日本人社会には入り込めない所があった。そこに世界の首脳が全部沖縄に集まる。しかもその会議が成功した。これはNHKの衛星放送で世界中に流れる。それをみて一番感動したのは実は彼らなんです。これはもう私も忘れません。これは良かった。そのためにもサミットの成功はつくづく良かったなと思っております。しかしこういう話もですね、話で伝えるのはなかなか難しい。
一番わかりやすいのは映画です。映像です。これはいつまでも残ります。それを見ることによって、私たちは時代もどんどん変わって、そんな貧しい時代もあったことを実感するのです。そのために、身を犠牲にして海外に飛び出していって大変ご苦労された先人たちのご苦労、あるいは功績。それを忘れてはならないという風に思っております。
世界のウチナーンチュ大会を開いたのは西銘順治さんです。西銘元知事の功績を忘れてはいけないと思います。世界のウチナーンチュ大会をやるってのはそんなに生易しいものではない。当時資料も何もないわけです。それを積み重ねてしかも各国の県人会と連絡をして、そこまで持ってくというのは大変なことです。
何でやったかっていうことを私は初めてアトランタ行って分かりました。何故かというと、ある個人の、お金持ちのお家に行ったらみんな集まってきたんです。そこで話をしてくれました。沖縄県知事がアトランタに来るということで近隣の人はみんな集まってきたと。しかしそれだけじゃなく他の州からも来たっていうんです。
自分で車を運転して、日本の県は短時間ですぐ他県に行きます。アメリカの州は日本の国みたいなもんでしょ。しかもアトランタの県人会で私もお会いしたけど男性は1人もいません。全部それが昔の言葉でいう戦争花嫁ですね。アメリカの軍人と結婚して向こうへ行って移って、アトランタの近郊に住んでる。
他の州からもわざわざ参加する人達を見て西銘さんは、何が何でもウチナーンチュ大会をやらなきゃならないと思ったのでしょう。
私も今から46年前の1980年にはペルーで4日間祖父を知っている人を探しました。明日は帰る日だった3日目にようやく見つけました。比嘉良行さんという方でした。しかもこの方いろいろ県人会のために尽くされたりするんで日本政府からも叙勲されておりました。
そして、「あなたのおじいさんは非常に面倒見のいい人だ」ということを聞いて大変嬉しく思ったんで、私はその方の写真を撮ってそれを仏壇に飾ったんですけど、色々体験があるから初めてその人達の多くの人たちの苦労、今もっと沖縄に対した愛情、何でそんだけ続くのか。
今はですね、移民社会はもう三世なり四世なり、もうスペイン語しか喋れない、ポルトガル語しか喋れない、英語しか喋れない人いっぱい居ます。ただなんでこのウチナー県人会が海外ウチナーンチュを連結できたのか。
これは沖縄独特の文化です。踊りであり、空手であり、三線であり最近ではエイサー。それから琉球料理も繋がっております。私も行くとですね、琉球料理ばっかり出していただくんで、たまにはその国の料理食べたいと言いたいんだけど、皆さんがたの表情を見るとですね、本当に真剣に沖縄を愛してる。強い郷愁の念をもってる。そういう心。そんな贅沢なことは言ってられません。もう毎日おんなじものを一生懸命食べました、琉球料理を。そういう沖縄独特の良さがある。
だから今、外務省はですね、ウチナーンチュ大会に併せて世界の日系人の大会をやって―大会じゃないです、集まりをやってます。他の県はそんな大規模なことやるのはどこもないです。ウチナーンチュだけです。沖縄だけの財産です。
しかしこれから大きな問題が残ります。何か。国際親善のために友好都市などはいっぱいできます。それを繋がってるところはできるとことはいっぱいあって最初はうまく続くけどいつまでも続けてるところはないです。少ないです。ずっと続くのは何かっていうと、文化だとかですね、それに何が加わるか、経済的な結びつきです。
その意味ではWUBの影響ってのはこれからも非常に大きいと思います。だから今は非常に難しい状況で色々試しては続かないっていう難しい問題もありますけれども、知恵を絞ってですね、経済的な結びつきを―中国のネットワーク、華僑ネットはすごいです。ビジネスで結ばれ、だから結びつきが強い。琉僑ネットみたいなですね、WUBを通じてそういうのを作り上げる。
そうすることによって、沖縄の発展そのものにも大きく結びつくと確信しております。
私に与えられた時間も実はちょっと過ぎてしまいました。これで終わりたいと思います。ありがとうございました。
2026年2月12日「沖縄移民125年の記録」映画製作発表フォーラム
元沖縄県知事・りゅうせき参与 稲嶺恵一
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